加茂建具の歴史

加茂建具の歴史

加茂建具100年物語

~加茂建具協同組合100年を振り返る~

私達の建具業は古き伝統技術の継承の中で成り立っております。
これからもその伝統技術を生かし、
そして新しい価値を見出していくことがこの伝統技術の継承と進化につながっていく事と考えております。
消費者の方々に建具は長い歴史があって今存在していること、
日本の住まい環境に適した機能とそして昔ながらのデザインが現代でも生える装飾を取り入れる事ができる建具の良さを知ってもらい、
一人でも多くの方々から加茂建具を取り入れて頂きたいと思っております。
その歴史を知って頂くために、加茂建具100年物語と称し、
加茂建具と加茂建具協同組合の歴史を少し、御紹介致します。

建具の歴史

建具の歴史

書院造りの和室
書院造りの和室
飛鳥時代~江戸時代の「建具」

日本最古の木製建具と各時代の建具

建具の歴史はとても古く、現存する最古の木製建具は飛鳥時代に建てられた法隆寺金堂の板戸と言われています。また、人々の暮らしの中に初めて登場した建具が平安時代に作られた「寝殿造り」と呼ばれる貴族の住居であると言われています。

また桃山時代から江戸時代にかけては、「書院造り」が登場し、外部には明り障子を使用、板戸・雨戸で仕切られ、内部は襖、欄間や障子に意匠を凝らしています。デザイン的な組子や細工が施され、襖には鮮やかな絵が描かれるようになり、建具の実用性だけでなく、そのデザイン性も注目されるようになり、同時に、建具職人の匠の技術も注目されるようになりました。

加茂市秋房1番に残る「蔀戸」
加茂市秋房1番に残る「蔀戸」
江戸時代の「加茂建具」

江戸時代には存在した加茂建具

加茂市においては古い歴史資料から建具がでてくるのは1787年(天明7年)の江戸時代の加茂町打ち毀しの被害記録で、「森田千庵」という医者で加茂町屈指の地主が被害に会いました。
その被害記録の中に、外回りには表口に格子戸、板戸、大戸、組子障子、通り脇の板戸、屋敷内部は座敷の組子障子、唐紙、帯板戸、のし戸、茶の間の組子障子などあり、現在でもある建具が江戸時代中頃にすでに使用されていたという事です。

寛保2年(1742年)加茂町上条村絵図
寛保2年(1742年)加茂町上条村絵図

加茂建具屋、建具職人の始まり

加茂市は信濃川の支流である加茂川が流れていた事から舟運が盛んになり、江戸初期ではすでに多くの商人が集まる商人町を呈するようになっておりました。
加茂川を中心に町が発展した歴史の資料が多くあり、加茂川中心に町が発展しており、江戸時代での打ち毀し、火事の記録があります。
この頃また家屋数も増えていき、酒屋・米屋・紺屋・鍛冶屋・旅籠屋・魚屋・木挽き・青物商売・桶屋・髪結・古着屋・薬湯・役者稼業などの商売渡世や諸職人がいた記録があります。

その後の歴史の中で、加茂の建具屋として記録がでてくるのは1813年。
1800年代の文化期には、確実に戸障子をつくる建具職人、指物細工を行う指物師、箪笥屋の存在が確認できます。

明治時代の「加茂建具」

建具屋の繁栄

明治4、5年の加茂町(本町・仲町)の戸籍図な中に、建具高野治五郎、建具神田瀧蔵、建具古澤甚六、建具高井亀吉、指物保倉佐六、指物有本元吉、建具小林政吉があり、この頃から、町並みに数軒建具屋が連なり、建具の商いが盛んにおこなわれていたと思われます。

明治20年代、30年代になると、加茂町案内図から、建具屋、材木屋、箪笥屋、漆業などが多数出てきており、木工業が盛んな町として来た事であると想像できます。

令和3年 加茂建具協同組合員一同
令和3年 加茂建具協同組合員一同
明治39年~

加茂建具営業組合の結成

そして、加茂建具協同組合100年の歴史が始まります。

相談役 田辺熊一氏インタビュー

相談役 田辺熊一氏インタビュー

加茂建具・加茂建具協同組合の歴史の中で、
昭和初期、戦時中、戦後の復興とその後のお話を中心に
加茂建具協同組合 田辺熊一相談役から当時の状況をお聞きしました。
加茂建具の歴史を今、鮮明に浮かび上げていきます。

田辺 熊一氏

話し手:加茂建具協同組合 相談役 田辺 熊一氏

<プロフィール>

大正14年1月10日生まれ
田辺春吉建具店 田辺春吉の長男として生まれる
昭和22年建具店店主となる
昭和63年加茂建具協同組合理事長に就任
平成14年まで務める
平成5年黄綬褒章を受章
平成15年勲五等瑞宝章を受章

出生、生い立ち、加茂の建具屋の状況
大正~昭和初期

熊一さんのお父さんが春吉(はるきち)さんですね。
熊一さんのご兄弟は?

そう、春吉。明治22年1月31日生まれ。親父は青野建具屋に弟子に行っていた。その後、大正7年に松坂町に「マル春」田辺建具店(現 有限会社田辺木工所)を創業したんだ。
松坂町には建具屋がたくさんいた。坂の下のほうから、『亀山建具屋』、『桑原建具店』、『うち(田辺建具)』、『吉田建具(和吉さん)』、それから『石田建具店(春八さん)』。石田さんはおやじの弟子として勤めていたんだ。それから、のれん分けして田辺建具の商売上の分家になった。
あと、田村さん、中川さん、小林さんがいたね。

俺は二人姉弟で姉がいた。姉がいたけれど、昭和11年に二十歳前で肺結核で亡くなった。

熊一さんは、生まれながらにして建具屋さんのお子様だったということですね。
ご自身で建具屋になりたいと思われてましたか?それとも長男だったから必然的に?

文句なしだったね。ただね、小学校卒業するとき親父に「家を継がないで満州に行く」と言った。そしたらうちの親父は「それだけはやめてくれ」と反対され、それならば「加茂朝学校(現 加茂暁星高等学校)」に入れてくれるかと言った。

中学校卒業後はすぐにうちの親父の元に入った。その後、おやじから店を任せられたのが昭和22年。要するに後を継いで田辺建具店の店主になったんだ。

田辺建具店(現 有限会社田辺木工所)
田辺建具店(現 有限会社田辺木工所)

当時のまちの様子をお聞きしたいんですが、当時の建具屋が結集していったということは活気があったのですか?

建具屋、タンス屋が入り混じってたくさんあったね。

田辺建具店さんは松坂町ですが、加茂川沿いにすごくたくさんあったという記録がありますね。今のどのあたりに建具屋さんがたくさんあったのですか?

現在の仲町だね。仲町土手通りに、瀬高さん、高橋長七さん、古澤甚六さんね。

建具屋さんが、松坂町と仲町にもいっぱいあったそうですが、交流などはあったのですか?

交流はあったと思うよ。というのは、組合ができたからね。

熊一さんが建具組合に入ったのは?

俺が入ったのは昭和24年。
それまではね、戦時中5人以下の会社は全部廃業させられて、商売ができなくなった。
これでは加茂の建具屋がダメになるということで、岩野吉次郎(いわのきちじろう)さんが『加茂建具工業株式会社』をつくった。
設立時はうちの親父が入って、俺が組合に関係するようになったのは、終戦後の昭和24年から。

戦争の頃の話
昭和16年頃~24年頃

戦時中のお話をお聞きかせください。

徴用に行き、昭和18年に横浜の鶴見造船に行っていた。約2年、軍艦をつくったね。

赤紙がきたのが、この徴用のときですか?

いや、赤紙は召集令状で、それが来たのが昭和20年3月。場所は九州の垂水(鹿児島県)へ8月15日に入隊する予定だった。(当時21歳)
九州までいけなくなり、8月30日予定で舞鶴への入隊に変更になった。
だけど終戦になって行かなくて良くなった。
日本が勝つと思っていたのに負けた。がっかりしたね。

田辺 熊一氏

徴用の時は、どんなお仕事をしていたのですか?

電気溶接をしていた。

戦時中の加茂はどうだったのですか?

加茂はなんともない。8月1日の長岡空襲の時は徴用から帰ってきたところで、家にいた。
あっちの方は空がひどく真っ赤になっていたね。音は聞こえなかった。
空襲警報がかかっていたからね。どこへも行けなかったわけだ。

加茂でも、警報がかかっていたのですか?

ああ、全県にかかっていた。ともするとラジオの空襲警報が入らないうちに爆撃がおこることもあったからね。

戦時中の建具屋さんは?

商売にはならなかったね

終戦になって兵隊に行かなくて済んでから、店主になるまでは何をされていたのですか?

加茂建具工業株式会社に社員として所属していた。昭和24年まで続いたんだ。20年に設立されて24年までね。
坂之下(松坂町)の建具屋の者はほとんどいて、みんなそうしたんだわ。
最後までは、俺だけが残った。都合がいいときだけ利用してってわけにはいかないから。

加茂建具組合の発足
昭和25年~

昭和25年に加茂建具協同組合がつくられましたね。その時のことを教えてください。

田沢保司さんが初代理事長でね、俺は組合員だったね。
当時の組合員は87人、アウトサイダー(非組合員)がその他に70件くらいあったんだがね。
仕事は一般の個人からの仕事、工務店からの仕事がいっぱいあった。あの時分はね、大工からの請負ではなく直接個人の家に行ったものだった。
加茂市内の仕事はあまりなくて、市外の三条、燕、見附、長岡へ出ていった。

運搬はどうしていたのですか?

材料運搬はね、まるつう(運送会社)を手配していた。
職人は汽車、それか、自転車だった。俺は見附まで『戸』を担いで運んだことあるんだがね、あれは風が吹くとどうしょうもなくてね。それでも何とかして担いで持って行ったもんだ。
手道具はリアカーで運んだね。

そうですか。今のように車で運び始めたのはどれくらいでしたか?

組合員の人が2トントラックを持っていた。それをいつの頃からか、加茂建具協同組合として共同で使うことになった。事故をおこしたら、個人が責任もつということで使っていたね。

青年会の発足
昭和30年

青年会発足の時のお話をお聞かせいただけますか?

青年会設立時に『神戸事件』というのが起こった。
『神戸事件』っていうのは、加茂の何か所かの建具屋が狙われた。『加茂倉庫』に品物を入れたら、金を支払うと言ってくる。それでみんなは信用して品物を入れる。そうすると、とたんに加茂倉庫は俺知らねぇよとなった。加茂の建具屋3箇所か4箇所が被害にあった。

【神戸事件】 昭和24年、神戸の三和土地(株)から加茂倉庫(株)を通じて、当時200万、枚数にして6千500枚の建具注文を数軒の建具屋が受注し完納。
しかしながら、売掛金回収が上手くいかず、当時の業界に激震が走った事件であった。
これを機に、建具屋同士の連絡・情報交換、そして商取引・法的知識が組合でも必須であるとの思いから、若手が勉強会を続け、その流れで昭和30年の青年会が発足する事になる。

昭和33年に青年会ができ組織としてしっかりしてきた頃、本町に事務所と倉庫をつくったのですね?
そして、建具用材の共同購入が始まったと?

そうそう。高さ10尺ぐらい、幅2メーターくらいの玄関があったんだがね。
(建具用材の)共同購入というよりも、みんなで分けてやっていこうかっていう感じだったね。

加茂建具協同組合事務所の新築落成記念(本町土手通り)
加茂建具協同組合事務所の新築落成記念(本町土手通り)
本町土手通りにあった加茂建具協同組合の事務所兼倉庫
本町土手通りにあった加茂建具協同組合の事務所兼倉庫

今もその共同購入が継続しているということですね。この頃は景気が良かったですか?

あの時分は景気がよかった。それでも冬場は仕事が無かったね。1月から4月頃は無かったからミサワホームのドアを作ったり、いろいろやったんだ。それが昭和47年設立の『加茂ドアー』ね。
この時はそろっと建具仕事が無くなってきた。というのは、アルミが出てきたからだ。

なるほど。ところで、今の西加茂に事務所が移ったのは昭和42年とあるのですが、これは水害の影響ですか?

そうそう。水害があって昭和42年に西加茂に移ったんだ。
本町の事務所に水が入って、濡れた帳簿を2階に上げて干していた。大変だった。
水害の時は一週間くらい仕事をしないで無料で奉仕したんだ。加茂の人の家が水害で川に流された。それで、みんな建具屋に買いに来た。建具屋は既製品を作っていてそれを提供した。

既製品とはどこかのメーカーに頼まれて卸していたのですか?

いやいや。自分たちの規格。それを問屋に卸していたんだ。

既製品ですか。作れば売れていたいい時代でしたか?

ああ。暇なときつくって貯めておいて、秋になったら売るんだ。

新商品開発と
加茂建具協同組合創立100周年
昭和末期~現在

最近の話になりますが、田辺熊一さんが理事長になられたのはいつ頃でしたか?

昭和63年から、平成14年まで理事長をやったんだ。

すごいですね。
そのころ『木製サッシ』の話し合いをやったんですか?

『木製サッシ』は事業補助金でやったんだわね。
というのはね、あの時分『アルミサッシ』がどんどん出てきて、打ち方周りまで進出してきたんだわね。そこで、昭和59年に『組合マーケティング強化対策事業』をつくったんだね。
この事業をつくる3年前から何を作るか検討していて、一つのものを決めた。それで『木製サッシ』がいいだろうということでつくった。

木製サッシ『加茂サッシ』
木製サッシ『加茂サッシ』

昭和55年、組合創立75周年の思い出ってありますか?

あれは、高橋英助さんが理事長の時だったね。高橋さんが出てくるまでそういうの(周年事業)はなかったんだ。

平成13年に新潟市で全国建具組合の大会がありましたね。
だいぶ今よりも業者の数が多くて、盛大に行われましたよね。

あの時は遠くから業者がきて、1500人くらい集まったかね。

加茂建具協同組合創立75周年記念式典
加茂建具協同組合創立75周年記念式典

その後、平成18年に創立100周年がありましたね。

ああ。100年の時は青柳作一くんが理事長だ。

熊一さんは普段、健康に気を付けていることってありますか?

毎日加茂山に歩きに行っている。96歳で山に行っているのは俺だけだ。

相談役、熊一さんの100周年が迎えられるといいですね。
今日はありがとうございました。

加茂建具協同組合創立100周年記念式典
加茂建具協同組合創立100周年記念式典

■参考資料:加茂建具史

加茂建具協同組合100周年に発刊。 加茂市文化財調査審議会の協力の下、約20年掛かって完成。 江戸時代からの加茂建具に関わる資料から、平成18年の100周年までの加茂建具の歴史が編集されている(非売品)。

加茂建具史

■編集後記

聞き手:加茂建具協同組合 副理事長 桑原 宗巳

長く古き加茂建具歴史を僅かばかりでありますが振り返って見ました。
建具は、現代できてきたものでなく、古き歴史から成り立っている日本の誇れる文化産業であるとご理解いただければと思います。
現在、組合員は21名と全盛期より建具業を営む会員は少なくなってきています。
これは時代と共に住宅事情を始め、社会状況も変わっての業界縮小という事でありますが、昔からある建具技術は日本の伝統技術でもあり、その技術継承を使命として、加茂建具組合はこれからも頑張って参ります。
古きある建具歴史を重んじ、技術継承している加茂建具を皆さんのお住まいの中でぜひご活用いただければ幸いです。

加茂建具史年表

加茂建具史年表

明治39年9月
(1906年)
加茂建具営業組合が設立される。
  • 初代組合長 古澤甚六
  • 組合47軒、塗師屋の賛助会員8軒
昭和12年9月
(1936年)
加茂建具営業組合が解散する。
  • 組合長 高橋長七

加茂建具工業組合が設立される。
  • 組合長 真保寅次
  • 組合員57名
昭和16年
(1941年)
戦時体制がつよくなる中、建具と箪笥の工業組合がまとまって加茂木工品工業組合連合が結成される。
昭和17年
(1942年)
企業整理をうけて、加茂滑空機航空株式会社が設立される。
昭和18年
(1943年)
加茂木工株式会社(高橋幸平社長)が設立される(皇国4892工場とも呼称、昭和26年に解散)。
新潟県建具商工業組合加茂支部が設立される。
昭和19年
(1944年)
企業整理対策として加茂建具工業株式会社(岩野芳次郎社長)が設立される。
昭和30年
(1955年)
加茂建具協同組合の青年会が発足する。
  • 初代会長 高橋英助
昭和33年
(1958年)
加茂市本町土手通りに加茂建具協同組合の事務所と倉庫を建築。建具用材の共同購入を開始。
昭和37年
(1962年)
新潟県建具組合連合会が発足する。
  • 初代会長 加茂建具組合の鈴木与次郎
  • 会員939名

加茂市で第7回全国建具業者大会が開催される。
昭和42年
(1967年)
西加茂(現寿町)に加茂建具協同組合の倉庫を建築。
昭和47年
(1971年)
協同組合新潟県加茂ドアーが設立される。
昭和51年
(1976年)
加茂川河川敷改修に伴い、組合の新事務所が西加茂(寿町16番6号)に移転、倉庫も併設建築する。
昭和52年
(1977年)
新潟県建具組合連合会青年部が発足する。
  • 初代会長 田邊攻
昭和55年
(1980年)
加茂建具組合創立75周年記念式典を執り行う。
昭和56年
(1981年)
加茂建具工業組合が設立される(平成8年ウッドテック加茂協同組合として改編)。
昭和59年
(1984年)
加茂木製サッシ組合が設立される。
平成13年
(2001年)
新潟市で第46回全国建具組合連合会、第35回全国建具展示会が開催される。
平成18年
(2006年)
加茂建具組合創立100周年記念式典を執り行う。

江戸時代から脈々と受け継がれた技術と伝統。
時代の移りかわりと共に進化していく建具で、
理想の空間を創るご提案をいたします。

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